犯罪にあわれた被害者の遺児たちに幸せを

犯罪被害救援基金

被害者の声

 当基金が発行している「ふれあい」に寄稿された奨学生・保護者等からのお便りの一部をここに紹介します。それぞれの方々が苦しみながらも前向きに頑張っておられる様子が赤裸々に伝えられております。ご一読いただければ幸甚です。

奨学生

 『弓道に出会いました』

 

 高校に入学し弓道に出会いました。学業は大変だけど、弓道を通してたのしい経験ができて商業なので色々な資格を取得しなければいけないけど新しい事に出会えてすごく楽しいです。

 『義務教育を終えて』 

 

 中学校を卒業して、義務教育9年間修了しました。

 4月から高校生になります。新しい事にいろいろと挑戦していきたいです。部活動を頑張ったり、将来の仕事を見つけたいと思います。高校生の生活で不安もありますが楽しく学校生活を送れるようにしていきたいと思います。

卒業生

 『皆様の支えのおかげで』

 

この春、無事に看護学校を卒業し、看護師国家試験にも合格する事ができました。これも救援基金やまわりの皆様の支えがあったからだと思っております。ありがとうございました。

今、僕は病院のオペ室看護師として4月から働いています。看護学校で勉強してきた事を基本として、毎日の手術などから色々と学んで立派な看護師になれるよう努力している所です。

これまでたくさんの方達に頂いてきた優しさに感謝して、これからは自分が社会の皆様に恩返しができるよう精進していきたいと思っています。

長い間見守っていただきありがとうございました。

 『学生生活を振り返って』

 

 この春、おかげさまで大学を卒業することができました。

学生生活を振り返って思うことは色々あります。

私は高校時代から、周囲の期待に応えたいと思っていました。そのため、海外留学などのグローバルな学びだったり、一人旅などのアクティブな挑戦や、ゼミなどで積極的に発言して仲間と協力しながら高めあっていくこと、サークルで長くつきあえる友達ができるかもしれないという期待、飲み会などで少し無茶することがあっても楽しい思い出を作ってくれたら良いという親の期待などがありました。 

しかし予想とは全く異なる私自身、また学生生活(コロナなどの理由も含む)が結果として待っていて、期待したようなことは一つもありませんでした。

一方で、思ってもみなかった良い経験をしました。私にとってアルバイトと聖歌隊は学生時代の最高の思い出です。

大学では自分とは合わない人々に無理に合わせなくても良いということを学びました。中学や高校だったら、周りに合わせることが優先されたと感じるけれど、これから社会で生き抜く上で、会社に無理して合わせて精神を病んだとしてもその責任を全て会社が負ってくれるわけではないし、自分の身は自分で守らなければならないから、大学ではその練習になりました。

良い事も悪い事も、現在の私を作っているので、大学に行くことができたことは本当に有り難いと感じています。ありがとうございました。  

保護者

 『孫の高校生活が始まりました』

 

  いつもお世話になっております。

書類提出のこの季節、自宅裏から見える公園は桜の花は満開でとてもきれいで眺めていても心が癒やされます。又おかげさまで孫娘は商業高等学校に入学いたしました。ご支援有り難うございます。

 高校受験の書類など提出は、すべてパソコンで行われ、あまり得意じゃないパソコンで苦戦いたしましたが、書類審査、受験も無事合格し、一安心しております。

   本人は中学校での友達もみんな別々の高校に進学し、友達がいなくなったので新しい友達ができるか心配していましたが、友達が多かった母親に似ると思い、孫には必ずいい友達ができるから心配しなくともいいと言っております。

 入学式の数日前、在学証明書の発行をお願いする為、高等学校に挨拶に行ってきました。いままでは小学校、中学校と事件の事情があり、先生、友達から戸籍名ではなく、称呼名で呼んでもらっておりましたが、高校に入学しても称呼名で呼んでもらえるか、母親がいないこと、私ども祖父母と生活していること、救援基金様にお世話になっていること、10数年前の事件の事などを説明してきました。校長先生も外部からの面会、訪ね人、など注意深く見守ってくれるとおっしゃってくれて安心して帰ってきました。今は高校生活も始まり孫娘も緊張した趣で通学しておりますが、もう少しすれば高校生活も慣れてくると思っており、私も毎朝弁当作りに頑張っております。

 いつもご支援本当にありがたく感謝致しております。

  『今もまだ』

 

 12歳年上の夫が事件のために小学生低学年になったのは、夫が55歳の時でした。当時、「まだ若いのに」と社会復帰や人生の事を言われてきましたが、当時の私には「まだ若い」より「もう55歳」という感じでした。

私が50歳を超え、あの時の「まだ若いのに」という「まだ」という意味がやっとわかってきました。子どもが大きくなるに従ってひとりで楽しむことを覚えました。やっと、自分の時間が持てるようになってきて初めて「まだ若いのに」と言う言葉の意味がわかりました。そう思うと夫が哀れに思えて涙が自然と出てきます。

 あの時、息が切れそうな夫。脳ダメージが大きく、「手術しても死ぬかもしれない。手術して仮に生きながらえたとしても元の生活には絶対に戻れない」当時の病院の先生の言葉が思い出されます。手術をして生きながらえたら私たちの生活は大きく変わること。手術をしなかったらゆっくり3時間後には確実に息を引き取ること。手術をしても亡くなったら家族で過ごせるのは3時間もないこと。「家族の中には手術を望まない家族もいます。それは悪いことではない。当然あるべき選択のひとつです。」

緊急を要する救急の片隅で説明を受けました。「そして、相談する時間もゆっくり考える時間も今、あなたにあげられない」とてもとても先生は優しかった。ゆっくりと丁寧な説明と裏腹に決断を迫る言葉。すぐに「手術をしてください」そう決めたのは私。その選択が最善だったとあの時も今もそう思う一方で、神の決める命の選択をしたようでいつまでも私を苦しめています。加害者を殺人罪にしなくてよかった。夫が生きててよかった。そう思う一方で、今、夫を見て生きてて本当に良かったのか?自由にならない人生なら死んだほうが良かったのではないか?夫が死んでいたら加害者は(すぐに逮捕されて)自殺しなかったのではないか?加害者の人生をも決めてしまったのではないか?そんなことが頭をよぎり、夫を見る度、神でもないのに神の采配をした私の罪と向き合うような気がしています。

卒業家庭

『心から願っています』

 

 事件から25年、基金の皆様のおかげで8人の子供達も高校を卒業し、7番目の次女以外は一家の大黒柱となり色々な経験を重ね、孫が20人以上と周囲がかなりおどろかれるぐらいになりました。

 私自身も医療品登録販売者の国家資格を取りやっと自立できました。

事件から子育てが終わるまでは、精神的にもつらくて病院通いが続いていましたが、今は空の上にいる次女の思いにこたえられる様にと自分に言い聞かせながら忙しい日々を送っています。当時生後五ヶ月だった息子も今は二児の父親になり、家族で集まった際父親の話になりますと「記憶にないから」「知らないから」と言いますが、自分が父親になって少しは亡くなったお父さんの気持ちがわかるのではないかと思っています。

 世の中にはまだまだ人を傷付ける人が沢山いるのも現実で、そんな被害者の方々を支えられる基金の皆様に感謝しています。犯罪がこの世から少しでも無くなる事を心から願っています、  

これからますます暑くなりますが皆様、くれぐれもお体に気を付けてお過し下さい。

 『皆様方の支援のお陰で』

 

 長い間の救援基金ありがとうございました。妻が絞殺され19年の月日が流れました。

 当時4歳だった娘も昨年無事に大学を卒業しました。妻の事は長い間子どもには真実を伝えてませんでしたが大学4年になった時に伝え、本人はあまり顔には出さなかったけれど大変ショックだったようです。就職活動もままならない中、かなり就職もきまらずに家に帰って来た状況です。病院と家にいる毎日ではありましたが半年も過ぎた頃、大学で学んだ技術を生かしバイトとして今は働いています。これは何よりも皆様方の支援のお陰だと感謝しております。殺人のない世の中を願い、住みやすい環境であってもらいたい気持でいっぱいです。

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